id:i_oritaさんへの書簡。

ガンガンいこう、ぜ?
d:id:i_orita:20070225(呼ばれて振り向くサバイバー「弱者でごめんなさい」)で僕が違和感を覚えたのはここ。

要するに、「障碍者に差別と言われたら黙らなければならない」という価値観を、言われる方は内面化しているから、障碍者(を代弁しているようにみえる母親)に「差別だ!」と迫られると、権威によってねじ伏せられた気分になる。私が言いたいのは、今、はてなで起きている議論は、障碍者がああするべき、こうするべきという問題ではなく、障碍者に向き合う者の問題だ。

弱者が、弱さを振りかざす、という批判はあらゆる社会問題で言われることだ。同情を引こうとしている、甘えている、結局は社会に迷惑をかけている。でも、それって弱者が考える問題ではなくて、強者の側が考えるべき問題だ。

果たしてそうだろうか? 僕は障害者関連のエントリの発端のひとつであるd:id:kaerudayo:20070222#p2(北沢かえるの働けば自由になる日記「書いて置けよ、わかるように」)の構図をこう読んだ。

遊具で遊んでいた3歳の娘を、10歳ぐらいの子がキックして泣かせた。

3歳の娘((傷害の)被害者=弱者)>10歳ぐらいの子((傷害の)加害者=強者)

「障害者なんです。わからないんです。怒らないでください」
と女の人が割って入ってきた。

3歳の娘(健常者=強者)<10歳ぐらいの子(障害者=弱者)

この瞬間、

3歳の娘((傷害の)被害者=弱者)□10歳ぐらいの子(障害者=弱者)

という構図になる。□に入る記号はなんなのだろう? 不等号になるとして、どっちが何を基準にして弱者なり、強者なりに定義されるんだ? そういえば障害者=弱者の構図を持ち込んだのはどっちなんだっけか? そもそも障害者=弱者の構図を持ち込んで、それ以前の構図を逆転させようとした障害者側に、障害者=弱者、つまりid:i_oritaさんの言う

障碍者に差別と言われたら黙らなければならない」

という意識があるんじゃね? それでも(障害者からみたら強者であるだろう)健常者“だけ”が考える“べき”問題? ここで、追って考えて生まれた疑問もあるけど、疑問というよりは違和感、さらにいえば瞬間的に嫌悪感すら覚えたわけ。それこそ、もうウザいから

「じゃあ、しっかり見張っておくか、胸に『障害者』って書いておけよ」

って気分。なので、はてなブックマークの「ウザい」は単純にid:i_oritaさん個人に向けたものではなく、あいまいな正義を都合良くかざしてる正義の味方ぶった誰かがウザいだけだ。アンパンマンも歌ってる、「愛と勇気だけが友達さー♪」。お前、優先席の前に立ったら携帯電話の電源切るか?(=電車のマナー、らしい)と言ったところだ。
id:i_oritaさんも書いているとおり

ある局面では強者であり、ある局面では弱者である

というのが答えで、その「強者」「弱者」であることを誰がどんな基準で定義しているのかが曖昧な以上、すべては個人的な価値観なり、モラルなり、正義なりの相違、もしくは相対でしかなくて。そうしたら個人が個人に対して「〜すべき」なんて言ったとして、それに従う義務なんてなくね? みたいな疑問が、そして「べき論嫌い」が、というお話がひとつ。

もうひとつの違和感は

ましてや、セクハラされたときに「性暴力サバイバーなんです! 傷つくんです!」と言ったら、弱者の印籠を振りかざしたと思われかねない。恐ろしい。ただ、傷つくことも、言ってはならない。なぜなら、弱者だから! 弱者が弱者であることを言うと、周囲の人は気を遣うから! そして、それが差別だというと、「自分自身を差別している」とか言われちゃう。こわー。ああ、もう、生きていけないよねー。

という例えを、先のid:kaerudayoさんの事例と等価で語ろうとすること。
前者は(社会的に弱者とされる)性暴力サバイバーが(セクハラの)被害者側(=弱者)だけど、後者は(社会的に弱者とされる)障害者が(傷害の)加害者側(=強者)にいる。この時点でそれぞれの社会的に弱者とされるものは等号で結べない。悪意を持って読めば、ミスリードを誘っているようですらある。僕、悪意あり過ぎ?

問題をごっちゃにしてるのはどっちなんだろう?