id:i_oritaさんへの書簡の続きの続き。

たからばこはからっぽだった。
「えー、そんなの、勝手に義務(=「べき」)にされたかないね! そんな余裕ないしー」っていう話は、id:keya1984さんが言うところの「強者/弱者」論とも(端々では絡むけれど)違って、最後は「べき」論の是非を問うことになるんじゃないかと思ってる、僕の視点からだと。そういう流れで話を進めていくと、

べし(可し)
個々の主観を超えた理のあることを納得して下す判断であることを示す。口語では、論理的な固い感じの文章や慣用的な表現で用いられる。
①当然の意。(ア)…するのがよい。(イ)…するはずだ。(ウ)…しなければならない。
②確実な推量の意。(ア)きっと…するだろう。…するに違いない。(イ)…するらしい。(ウ)…する予定だ。
③話し手の動作の語について、意志・決意を表す。必ず…しよう。…するつもりだ。
④可能の意。…することができそうだ。
⑤命令の意。…せねばならない。
──『広辞苑第五版』

ってことなので、

弱者の側にも問題はあるが、問題を解決するのは強者の側であるべきだ。なぜなら、強者のほうが余裕を持ちやすいから。

っていうid:i_oritaさんの言い分が「個々の主観を超えた理のあること」なのかどうかという話になるんだろう。
ところで「弱者」と「強者」ってなに? ということになると、id:keya1984さんは

障碍を持っていますけど、まったく、社会的弱者ではありません

と言うし、id:i_oritaさんは

サバイバーはサバイバーと名乗れるだけで、もう既に弱者じゃない

と言う。僕の考える「弱者」、id:keya1984さんの考える「弱者」、id:i_oritaさんの考える「弱者」。それぞれは違うような、違わないような…。そこがグチャグチャのままぐだぐだしてたんで、僕は「弱者」を(1)社会的な規定の裏付けがある(=個々の主観を超えた理のある)「弱者」(2)個人の価値観の基にした(=個々の主観による)「弱者」の二つに(ざっくりとだけど)分けられないかと考えてみた。
(1)の「社会的な規定」っていうのは、市井の人と比べた時に社会(=国、都道府県、市町村とか)から何かしらの免責や優遇措置を保証されてる(例えば、母子家庭なら補助金貰える、障害者ならば障害者年金を受け取れる、高齢者であれば都営バスが無料で乗れる、とか、そういうの)か、(犯罪被害者のように)社会が保証する権利を侵害されたことを社会が証明してることを示すとする。この場合、id:keya1984さんとid:i_oritaさんはたぶん「弱者」なんだろうし、今の僕は「弱者」じゃない。で、このときの「べき」っていうのは社会に向けられるだろう。だって「弱者」を規定している、要するに「弱者」の身分(とその権利みたいななんか)を保障しているのは社会だし、その社会は「強者」が何者なのかを規定していないから「強者」は存在し得ないと考えるから。ここで解釈に差異が生まれるとすると、「弱者」の相対的な存在であろう市井の人を「強者」とするかどうかなんだろうけど、その相対性が「個々の主観を超えた理のあること」を保障するかどうかは…うーん、そうか? (2)はその「弱者」という存在そのものが「個々の主観を超えた理」を備えていないんだから「べき」論の俎上に載らない。
そこで、改めて

弱者の側にも問題はあるが、問題を解決するのは強者の側であるべきだ。なぜなら、強者のほうが余裕を持ちやすいから。

ってのは、市井の人の僕からすれば、「強者」って存在が規定されている時点で個々の主観によるものだから「べき」とか言われたくないし、余裕があるって言うけど、いやいや、これでもパツパツなんですよ、って言い返しちゃったら、もう、お互いに弱さ自慢になっちゃって噛み合ないまま終わるんだろーなー、みたいに思った。
とか、ぐだぐだと理屈を書いてみたんだけど、http://d.hatena.ne.jp/MASASCIANTE/comment?date=20070309#cを繰り返し読んでたら、そんな話なんかより大事な話があるんじゃないかと思うから、そんな感じの続きを別エントリで書くことにする。…じゃあ、これ、書かなくていいじゃん。