吉田修一『りんご』*2を読んだ。

ふと沈黙が流れて、「上で、知り合いが待ってるんです」と、唐突に二人に告げた。訊かれたわけではなかったが、観光名所の行列に一人で並んでいる自分を紹介するのに、一番てっとり早いような気がした。
実際にはビクトリアパークで待っている知り合いなどいなかったが、言葉と言うのは不思議なもので、そう言ってしまえば、本当に誰かが待っているような気がしてくる。
──吉田修一『りんご』

「珈琲と紅茶、どちらになさいますか?」
店を出たら顔も覚えてないだろうウエイトレスが営業スマイルを片手に聞いてくる。彼女にしてみればいつもの台詞だろうし、こっちにしてもいつもの台詞でしかないから、「珈琲、ひとつ」「俺も」「じゃあ、俺も珈琲でいいや」というところに「紅茶で」とかぶせる。そこで珈琲が間違えて置かれたとしても僕は気づかないだろうし、気づいてもそのまま飲むだろう。そうやって明日になると、明日も「紅茶で」とかぶせる。そこで珈琲が間違えて置かれたとしても僕は気づかないだろうし、気づいてもそのまま飲むだろう。そうやって…そう、やって。