金原ひとみ『ハイドラ』*3を読んだ。

「そんなに簡単に、簡単な人間に戻れると思いますか?」
「簡単な人間って言い方はどうかと思う」
「楽しい事を楽しい事と感じたり、悲しい事を悲しい事と感じたり、腹立たしい事を腹立たしいと感じたり、そういう一足す一は二、っていうような人間の事です」
「なにそれ」
「一足す一はゼロみたいな、歪んだ図式で世界を捉えていた人が、常識的な世界に戻るのは、難しいと思います」
「歪んだ図式で生きていても、一足す一は二っていう常識を捉えてはいるよ」
「そこに違和感は感じませんか?」
──金原ひとみ『ハイドラ』

感じます。毎朝七時半を告げる携帯電話のアラームで今日に呼ばれて、その他大勢と一緒にホームの列に並んでその他大勢になると満員電車があっちへ運んでくれて、こっちではパソコンの画面いっぱいに死ね死ね死ねと文字を打ち込んで恍惚に浸ることもなく、彼女のキスと温かいご飯がすでに詰まっている箱にもう一度詰め戻されると。麻痺します。

Is this heaven or hell?
Where is this?
I can't tell, can't tell the difference
(訳詞)
ここは天国?それとも地獄?
どっちなんだ?
悪と正義の区別もつかない
──ASPARAGUS『SPEAKIN' UP』

KAPPA I

KAPPA I

島本理生『大きな熊が来る前に、おやすみ。』*4を読んだ。

明日を飲み込んでくれる熊などいないことも、手軽な希望などないことも、知っていた。それでもここからまた一つずつ積み上げていくしかない。生きるというのはそういうことなのだろう、たぶん。
私は枕元のライトに手を伸ばした。
すべての明かりが消えてしまうと、なにもない寝室の中、二つの鼓動と体温だけが闇に溶けずに、わずかに残った。
──島本理生『大きな熊が来る前に、おやすみ。』

あー、もう!
お前みたいな女の子がセックスしただけで何かが積み重なったような気になっちゃって。
お前みたいな女の子がセックスし終わった後に「あたしのこと、好き?」とか聞いてきて。
お前みたいな女の子がセックスなんて好きでもないくせにやたらと意味ばかりを求めて。
あー、もう!

id:i_oritaさんへの書簡の続きの続きを超えたなにか。

みんながんばれ。
もう個人的な話に終始しよう。id:i_oritaさんも議論から降りたところで語ってんだから。
id:i_oritaさんの

そりゃさ、言い切らなきゃいけないんですよ。闘いだから。正義を押しつけなくちゃいけない。

って言葉を何度も読んでたら、僕に僕の理屈が通じなくなった。当事者からのそのひと言(って言っちゃうとid:i_oritaさんは嫌がるかもしれなけど)は、少なくとも僕には、重くて、だから僕はそれがやり過ぎだ、とかって言いたくない気分。でも、そこで(押しつけなんだからそう言わなきゃしゃーないんだろうけど)「べき」って言われてしまうと、やっぱりそれは嫌、ってのが正直なとこ。だからd:id:MASASCIANTE:20070310#p1って書いちゃう、それは僕の闘い方。っていう僕の態度は

もう構ってくれるな、と(中略)言わせちゃう社会

の一部なんだろう。とかね、僕の理屈と当事者のリアルがグルグルしちゃうー! っていう現状がいま、まさにここで!
例えば、

障碍者の人と、性暴力被害者ってどっちが弱いんでしょうね。私は障碍者アイデンティティを持った人に、「甘えるな」って言われてカチンと来たことありますね。んでも、私も障碍者に「甘えるな」って思うことあるからなあ(言わないようにするけどさ)

みたいな話って、d:id:kaerudayo:20070222#p2と同じ構図で、id:i_oritaさんも書いたし、d:id:MASASCIANTE:20070301#p1で僕もそれが答えだって書いたけど、

ある局面では強者であり、ある局面では弱者である

ってとこに集約されちゃうと思うんですよ。それって、どっちが強者でどっちが弱者かとか、どっちが正しくてどっちが間違ってるとかって誰も規定できない(裁判沙汰にすれば社会(=裁判所)が規定してくれるけど)し、だからそこを僕は「強者だから考えるべき」で括りたくないっていうだけの話だったのね、そもそも。向き合いたくないっていうより、そういう構図では考えられらないよ、僕は、って話。で、そうなったら、もう、id:i_oritaさんの言う通り「闘い」なんだよね、自分は自分で守らないといけない。そのときに

サバイバー同士で喋ってて、今度弱者的立場に置かれそうな場所に行くから「被害者」ハチマキをしていこうかって冗談言ってたんですが、マジでそういうことを望みますか?

っていう行動が(政治的に)有効ならそういう選択肢もありと思う、この例え話の場合は有効じゃなさそうだけど。そういう「私は(社会的に規定された)弱者ですよ」って公言する行為、例えば妊婦が付けるようになってきた(らしい、見たことないんだけど…)妊婦バッヂとか、が彼らの利益になるんであれば公言していけばいい、ただそういうことは稀だけど。で、まあ、途中から急に「私は(社会的に規定された)弱者ですよ」って言って(免責とか、優遇とかを求めて)くるなら最初から言ってくれよ、って思うとこもある。でも、それが新たな差別を引き起こすだろうことくらいは予想できる。ここでも僕の理屈と当事者のリアルがグルグルしちゃうー!
だから、やっぱり、id:i_oritaさんも、id:keya1984さんも、僕も、闘う(=議論と対話)しかないんでしょうね。id:i_oritaさんは過去の自分だったりする声も上げれない弱者のために。僕は僕の大事な人と家族のために。id:keya1984さんは…誰のためだろ? とか、理由をつけてね、偽善でも、欺瞞でも、自己満足でもいいから。面倒臭いけどね、楽しくないときもあるけどね、とにかく生きなきゃいけないから。…あー、なにが言いたいんだがわかんなくなってきた。

ここからは余談。

僕はこの議論みたいななにかと前後した頃、乙一の『ZOO』という短編集を読んでた。その一編に『カザリとヨーコ』という短編があって、なんとなくこんな感じに読んだ。あらすじはこんなだ。「カザリ」と「ヨーコ」という双子がいて、「ヨーコ」は「母親」に溺愛されて可愛く着飾ってるが、「カザリ」はその逆に虐待を受けて食事もままならない。「ヨーコ」と違って薄汚れた「カザリ」を同級生は笑うので「カザリ」はそれにちょっとムッとするけど、「ヨーコ」を羨ましくも、妬みもしない。そんなある日、とある事件をきっかけに「カザリ」と「ヨーコ」はお互いに入れ替わることとなり、「カザリ」になった「ヨーコ」は「母親」に殺される。そのとき「ヨーコ」になった「カザリ」は「母親」(の場所)に留まることなく、新しい街を目指して歩き出す。…僕は「ヨーコ」を「強者」に、「カザリ」を「弱者」に置き換えていた。

MASASCIANTEさんは強者の立場に自分を置いてるみたいですけど、ある一面ではMASASCIANTEさんは弱者の位置に入ると思うんですよ。そういうときにMASASCIANTEさんはどうします?

この問いの答えはそういうことになるんだろうな。それは理想でしかなくて実際は羨ましいし、妬ましいだろうな。とか、わけわかんないまま文章を締めてみる。
ぐだぐだ。

ZOO 1 (集英社文庫)

ZOO 1 (集英社文庫)

id:i_oritaさんへの書簡の続きの続き。

たからばこはからっぽだった。
「えー、そんなの、勝手に義務(=「べき」)にされたかないね! そんな余裕ないしー」っていう話は、id:keya1984さんが言うところの「強者/弱者」論とも(端々では絡むけれど)違って、最後は「べき」論の是非を問うことになるんじゃないかと思ってる、僕の視点からだと。そういう流れで話を進めていくと、

べし(可し)
個々の主観を超えた理のあることを納得して下す判断であることを示す。口語では、論理的な固い感じの文章や慣用的な表現で用いられる。
①当然の意。(ア)…するのがよい。(イ)…するはずだ。(ウ)…しなければならない。
②確実な推量の意。(ア)きっと…するだろう。…するに違いない。(イ)…するらしい。(ウ)…する予定だ。
③話し手の動作の語について、意志・決意を表す。必ず…しよう。…するつもりだ。
④可能の意。…することができそうだ。
⑤命令の意。…せねばならない。
──『広辞苑第五版』

ってことなので、

弱者の側にも問題はあるが、問題を解決するのは強者の側であるべきだ。なぜなら、強者のほうが余裕を持ちやすいから。

っていうid:i_oritaさんの言い分が「個々の主観を超えた理のあること」なのかどうかという話になるんだろう。
ところで「弱者」と「強者」ってなに? ということになると、id:keya1984さんは

障碍を持っていますけど、まったく、社会的弱者ではありません

と言うし、id:i_oritaさんは

サバイバーはサバイバーと名乗れるだけで、もう既に弱者じゃない

と言う。僕の考える「弱者」、id:keya1984さんの考える「弱者」、id:i_oritaさんの考える「弱者」。それぞれは違うような、違わないような…。そこがグチャグチャのままぐだぐだしてたんで、僕は「弱者」を(1)社会的な規定の裏付けがある(=個々の主観を超えた理のある)「弱者」(2)個人の価値観の基にした(=個々の主観による)「弱者」の二つに(ざっくりとだけど)分けられないかと考えてみた。
(1)の「社会的な規定」っていうのは、市井の人と比べた時に社会(=国、都道府県、市町村とか)から何かしらの免責や優遇措置を保証されてる(例えば、母子家庭なら補助金貰える、障害者ならば障害者年金を受け取れる、高齢者であれば都営バスが無料で乗れる、とか、そういうの)か、(犯罪被害者のように)社会が保証する権利を侵害されたことを社会が証明してることを示すとする。この場合、id:keya1984さんとid:i_oritaさんはたぶん「弱者」なんだろうし、今の僕は「弱者」じゃない。で、このときの「べき」っていうのは社会に向けられるだろう。だって「弱者」を規定している、要するに「弱者」の身分(とその権利みたいななんか)を保障しているのは社会だし、その社会は「強者」が何者なのかを規定していないから「強者」は存在し得ないと考えるから。ここで解釈に差異が生まれるとすると、「弱者」の相対的な存在であろう市井の人を「強者」とするかどうかなんだろうけど、その相対性が「個々の主観を超えた理のあること」を保障するかどうかは…うーん、そうか? (2)はその「弱者」という存在そのものが「個々の主観を超えた理」を備えていないんだから「べき」論の俎上に載らない。
そこで、改めて

弱者の側にも問題はあるが、問題を解決するのは強者の側であるべきだ。なぜなら、強者のほうが余裕を持ちやすいから。

ってのは、市井の人の僕からすれば、「強者」って存在が規定されている時点で個々の主観によるものだから「べき」とか言われたくないし、余裕があるって言うけど、いやいや、これでもパツパツなんですよ、って言い返しちゃったら、もう、お互いに弱さ自慢になっちゃって噛み合ないまま終わるんだろーなー、みたいに思った。
とか、ぐだぐだと理屈を書いてみたんだけど、http://d.hatena.ne.jp/MASASCIANTE/comment?date=20070309#cを繰り返し読んでたら、そんな話なんかより大事な話があるんじゃないかと思うから、そんな感じの続きを別エントリで書くことにする。…じゃあ、これ、書かなくていいじゃん。

id:keya1984さんへの書簡というほどではないなにか。

マドハンドはなかまをよんだ。
d:id:keya1984:20070305とかコメント欄を読んで、まずその一。僕もid:i_oritaさんも、id:keya1984さんがいうところの大枠の話(僕はそうは読まなかったけど)である

「ごめんなさい」のひとことが大事じゃん

とか、

「発達障碍のこと、知りたいですか?」

とかはどうでもいいというか、この議論の主題にはしてないな、と。僕が違和感を感じたのはd:id:MASASCIANTE:20070301#p1にも書いている部分で、そこでid:i_oritaさんが言いたいことは、

「弱者に弱さを振りかざされた、と感じるなら「弱者に弱さを振りかざすな」というのではなく、強者の側がどう対応するのか考えろ

弱者の側にも問題はあるが、問題を解決するのは強者の側であるべきだ。なぜなら、強者のほうが余裕を持ちやすいから。

ということだとid:i_oritaさんも言っているので。なので、辿りに辿った元のエントリ群の(id:keya1984さんが思う)意図するところの延長線上で議論をしてないから混線してるように(id:keya1984さんが)感じたのでしょう。これは各論の中の各論についての議論なので。ただ、「弱者」と「強者」という言葉の意味が互いに同意であるかの疑問は薄々と感じてたとこなので「ああ、やっぱりそうだよねー」と喉のつかえが取れたのは多謝。あと、「べき」という言葉についても同様のことが言えそう。
その二は、また話を別の次元でしないといけないから並記するのはあれなんだけど、

自閉症の子に叱り付けないでくれという咄嗟の行為が、そういうことにはならんだろう。というか、そういうことを私は書いたわけね。

とあるんだけど、それは(そもそも例の子が自閉症であることも含めて)可能性の問題で、僕はどっちの可能性もあると思っている(=「そういうことにはならん」とは思っていない)。それはid:keya1984さんの一連のエントリを読んだ上でも変わらない。だた、そういう可能性があることには気づかされた事実はある。
ついでに(これ、後出しジャンケンっぽくて嫌なんだけど)d:id:keya1984:20070223#1172236066に「瞬時にそこまで推察できたら神」ってブクマを僕は付けたんだけど、d:id:kaerudayo:20070222#p2について、その後日談としても、障害者であったり、発達障害であったり、自閉症であったり、まあ、そういうことを知らなければ、id:keya1984さんの書いたような可能性には気づけないだろう、少なくとも僕は。事実、その後もid:kaerudayoさんはその可能性に気づいてないようだし、あのエントリの追記を読む限りでは。だとすると、少なくとも僕はid:keya1984さんのエントリを読まなかったら(刺激的な言い方をしますが)「弱者になりたい弱者がキーキー騒いでる」「なるべくそういうことには関わり合いになりたくない」としか思わなかっただろうわけで、自閉症なりなんなりの「弱者」がマイノリティである以上、そういう可能性のほうが高い(例えば、d:id:kaerudayo:20070222#p2に「周囲で、ほのぼの遊んでいた他の親子は、みんないなくなっていた」という記述があることからも)だろうし、そうなってくるともう、どこかで政治的にならざる得ないのでは、とは思うから、最後の「悲壮な話じゃないんですが」ってのは綺麗事っぽく読めた。そう思わなきゃやってらんない、というのもあるのかもしれない。このあたりは当事者性とか絡みそうなので、誰か盛り上げてくれたら読みたい。
で、まあ、こんな雰囲気の場合の責任の所在について、id:i_oritaさんが

弱者の側にも問題はあるが、問題を解決するのは強者の側であるべきだ。なぜなら、強者のほうが余裕を持ちやすいから。

とか言うので、僕は「えー、そんなの、勝手に義務(=「べき」)にされたかないね! そんな余裕ないしー」ということを(次のエントリで)言おうとしているだけなのです。なので、まあ、不毛でしょう。そんな不毛な話は明日にでも、眠いから。

id:i_oritaさんへの書簡の続き。

じゅもんつかうな。
うーんと、噛み合ってないって言われちゃったりで、ぐだぐだなままで。

(1)
弱者に弱さを振りかざされた、と感じるなら「弱者に弱さを振りかざすな」というのではなく、強者の側がどう対応するのか考えろ、ということ

このとき「強者」と「弱者」という構図を持ち込んでるのは、最初に弱さ、例えば「障害者なんです。わからないんです。怒らないでください」とかね、を振りかざしてきた「弱者」になりたい「弱者」で、「弱者」に「強者」とされた「強者」はその構図に否応なしに付き合わされているだけよ、と。向き合いたいと思って向き合ってるんじゃなくて、無理矢理に付き合わされてるんですよ、と。
だとすると、そもそも弱さを振りかざすことで免罪符になるだろうと思っている「弱者」になりたい「弱者」の側にはなーんの問題もないの? ってのがひとつ。

(2)
北沢さんが挿入した障碍者=弱者なの?という構図が問題

これはd:id:kaerudayo:20070222#p2の読み方が、僕とid:i_oritaさんで違うのでしょう。僕は

3歳の娘((傷害の)被害者=弱者)□10歳ぐらいの子(障害者=弱者)

の□に「<」という記号が無条件で入るんでしょうかね?と問いかけているように読んだので。障害者という免罪符はどんな場合でも成り立つのか、要するに障害者はとある行為が反社会的行為であると知らなければ、その反社会的行為を無条件に許されるのか、と。そう読んだのはhttp://anond.hatelabo.jp/20070218013048が問題の起点と読んだから。

(3)
最後の段落は、何を言っているのかわかりません。

…あーうー。

セクハラを受けた(反社会的行為の被害者=弱者)性的サバイバー(=弱者)が印籠を振りかざすこと

3歳の女の子をキックした(反社会的行為の加害者=強者)障害者(=弱者)が印籠を振りかざすこと

は同じじゃないよね? ということです。後者は「強者」から「弱者」への転向が目的であるのに対して、前者はそういうことでないから。
「AをBにせよ」とするなら、

弱者に弱さを振りかざされた、と感じるなら「弱者に弱さを振りかざすな」というのではなく、強者の側がどう対応するのか考えろ

ってのを

弱者に弱さを振りかざされた、と感じるのは、「弱者」になりたい「弱者」が「弱者」と「強者」の構図を持ち込むからで、そんなことするなら最初から「弱者」って書いておいてくれたらいいと思うよ、「強者」になりたくないときは近づかないから

という感じだろうか。差別主義者っぽいなー。

id:i_oritaさんへの書簡。

ガンガンいこう、ぜ?
d:id:i_orita:20070225(呼ばれて振り向くサバイバー「弱者でごめんなさい」)で僕が違和感を覚えたのはここ。

要するに、「障碍者に差別と言われたら黙らなければならない」という価値観を、言われる方は内面化しているから、障碍者(を代弁しているようにみえる母親)に「差別だ!」と迫られると、権威によってねじ伏せられた気分になる。私が言いたいのは、今、はてなで起きている議論は、障碍者がああするべき、こうするべきという問題ではなく、障碍者に向き合う者の問題だ。

弱者が、弱さを振りかざす、という批判はあらゆる社会問題で言われることだ。同情を引こうとしている、甘えている、結局は社会に迷惑をかけている。でも、それって弱者が考える問題ではなくて、強者の側が考えるべき問題だ。

果たしてそうだろうか? 僕は障害者関連のエントリの発端のひとつであるd:id:kaerudayo:20070222#p2(北沢かえるの働けば自由になる日記「書いて置けよ、わかるように」)の構図をこう読んだ。

遊具で遊んでいた3歳の娘を、10歳ぐらいの子がキックして泣かせた。

3歳の娘((傷害の)被害者=弱者)>10歳ぐらいの子((傷害の)加害者=強者)

「障害者なんです。わからないんです。怒らないでください」
と女の人が割って入ってきた。

3歳の娘(健常者=強者)<10歳ぐらいの子(障害者=弱者)

この瞬間、

3歳の娘((傷害の)被害者=弱者)□10歳ぐらいの子(障害者=弱者)

という構図になる。□に入る記号はなんなのだろう? 不等号になるとして、どっちが何を基準にして弱者なり、強者なりに定義されるんだ? そういえば障害者=弱者の構図を持ち込んだのはどっちなんだっけか? そもそも障害者=弱者の構図を持ち込んで、それ以前の構図を逆転させようとした障害者側に、障害者=弱者、つまりid:i_oritaさんの言う

障碍者に差別と言われたら黙らなければならない」

という意識があるんじゃね? それでも(障害者からみたら強者であるだろう)健常者“だけ”が考える“べき”問題? ここで、追って考えて生まれた疑問もあるけど、疑問というよりは違和感、さらにいえば瞬間的に嫌悪感すら覚えたわけ。それこそ、もうウザいから

「じゃあ、しっかり見張っておくか、胸に『障害者』って書いておけよ」

って気分。なので、はてなブックマークの「ウザい」は単純にid:i_oritaさん個人に向けたものではなく、あいまいな正義を都合良くかざしてる正義の味方ぶった誰かがウザいだけだ。アンパンマンも歌ってる、「愛と勇気だけが友達さー♪」。お前、優先席の前に立ったら携帯電話の電源切るか?(=電車のマナー、らしい)と言ったところだ。
id:i_oritaさんも書いているとおり

ある局面では強者であり、ある局面では弱者である

というのが答えで、その「強者」「弱者」であることを誰がどんな基準で定義しているのかが曖昧な以上、すべては個人的な価値観なり、モラルなり、正義なりの相違、もしくは相対でしかなくて。そうしたら個人が個人に対して「〜すべき」なんて言ったとして、それに従う義務なんてなくね? みたいな疑問が、そして「べき論嫌い」が、というお話がひとつ。

もうひとつの違和感は

ましてや、セクハラされたときに「性暴力サバイバーなんです! 傷つくんです!」と言ったら、弱者の印籠を振りかざしたと思われかねない。恐ろしい。ただ、傷つくことも、言ってはならない。なぜなら、弱者だから! 弱者が弱者であることを言うと、周囲の人は気を遣うから! そして、それが差別だというと、「自分自身を差別している」とか言われちゃう。こわー。ああ、もう、生きていけないよねー。

という例えを、先のid:kaerudayoさんの事例と等価で語ろうとすること。
前者は(社会的に弱者とされる)性暴力サバイバーが(セクハラの)被害者側(=弱者)だけど、後者は(社会的に弱者とされる)障害者が(傷害の)加害者側(=強者)にいる。この時点でそれぞれの社会的に弱者とされるものは等号で結べない。悪意を持って読めば、ミスリードを誘っているようですらある。僕、悪意あり過ぎ?

問題をごっちゃにしてるのはどっちなんだろう?